前の平安神宮の記事で……
「次の記事は知恩院についてにする!」
と言っていたのですが、急遽予定を変更しまして……
多くの受験生が訪れる 北野天満宮 について採り上げたいと思います。(知恩院についてはいずれ必ず採り上げます。)
一昨日参拝したのですが、京都市は天気と気温に恵まれ、とても過ごしやすい一日でした。
近頃気温も高くなり、北野天満宮の梅は綺麗に花を開かせました。
多くの参拝者の方々が梅苑に来られていて、平日ではありましたが、大変賑わった一日だったかと思います。
ここ北野天満宮の祭神は、平安時代の貴族菅原道真公です。
一般的には学問の神様、日本史の科目的には遣唐使を中止し、藤原時平との政戦に敗れ、太宰府へ流された人物として知られています。
また、北野天満宮といえば、綺麗な梅と……
牛達ですね。
北野天満宮には、そこらじゅうに牛の像が見られます。
道真公と牛との関係の前に、北野天満宮の歴史から……。
北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが 当所に神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まりとされます。その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使 が派遣され、国家の平安が祈念されました。この時から「北野天満天神」の神号が認められ、寛弘元年(1004)の一條天皇の行幸をはじめ、代々皇室のご崇 敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められてきました。
江戸時代には、各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室に天神さまがおまつりされたり、道真公のお姿を描いた「御神影」が掲げられて、学業成 就や武芸上達が祈られてきました。このことがのちに「学問の神さま」、「芸能の神さま」として皆さまに広く知られるようになった所以です。
現在、全国各地には道真公をおまつりした神社が、およそ1万2000社あるとも言われ、その多くは当宮から御霊分けをした神社です。
菅公(道真公のことです)は丑年生まれで、牛と結びつける様々な逸話が伝承されています。
例えば、国宝「北野天神縁起絵巻」には、父是善卿との出会いの場面をはじめ随所に牛が描かれていて、後世人々が菅公と牛の関わりをどれほど重視していたかを知ることができます。
当宮では境内いたるところに臥牛(横たわった牛)の像があり、古くから「丑の日」の参拝も盛んで、牛は神使として、天神さま(これも道真公のことです)と私たちをとり結ぶ役割を担っています。
伏見稲荷大社や平安神宮の英語表記で見受けられた 神社という大きなカテゴリーの中に含まれる大社や神宮などの英語表記も shrine と表記する という英語表記の法則性が、この北野天満宮の英語表記においても Kitano Shrine という形で見受けられました。
ただ、日本人が Kitano Shrine と外国人観光客に尋ねられた時、Kitano Shrine=北野天満宮 と解釈することができるかどうかは難しいところかな…。
shrine の意味を神社と理解するのではなく、もっとワイド、柔軟に、「神社に類する建物」「a kind of shrine」と理解しなければならないので、日本人には理解されない可能性も少なからずあるかと思います。
伏見稲荷大社の場合、「大社」よりも「伏見稲荷」という語の方がよく知られており、その伏見稲荷を Fushimi Inari としてローマ字表記することで、大社を shrine と英語表記しても、日本人には伝わる可能性が高いと考えられます。
しかし、北野天満宮の場合、伏見稲荷大社の「伏見稲荷」と同程度に、北野天満宮の「北野」に知名度があるとは考えにくく、むしろ「天満宮」という語の方が知られていると考えることもできるかと思います。
その北野を Kitano とローマ字表記して、天満宮を shrine と英語表記しても、日本人には北野天満宮として伝わりにくいのではないでしょうか?
では、ウェブサイトの英語表記を見てみます。
⑥:Kitano Tenmangu Shrine
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「次の記事は知恩院についてにする!」
と言っていたのですが、急遽予定を変更しまして……
多くの受験生が訪れる 北野天満宮 について採り上げたいと思います。(知恩院についてはいずれ必ず採り上げます。)
一昨日参拝したのですが、京都市は天気と気温に恵まれ、とても過ごしやすい一日でした。
近頃気温も高くなり、北野天満宮の梅は綺麗に花を開かせました。
多くの参拝者の方々が梅苑に来られていて、平日ではありましたが、大変賑わった一日だったかと思います。
ここ北野天満宮の祭神は、平安時代の貴族菅原道真公です。
一般的には学問の神様、日本史の科目的には遣唐使を中止し、藤原時平との政戦に敗れ、太宰府へ流された人物として知られています。
また、北野天満宮といえば、綺麗な梅と……
牛達ですね。
北野天満宮には、そこらじゅうに牛の像が見られます。
道真公と牛との関係の前に、北野天満宮の歴史から……。
北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが 当所に神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まりとされます。その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使 が派遣され、国家の平安が祈念されました。この時から「北野天満天神」の神号が認められ、寛弘元年(1004)の一條天皇の行幸をはじめ、代々皇室のご崇 敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められてきました。
江戸時代には、各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室に天神さまがおまつりされたり、道真公のお姿を描いた「御神影」が掲げられて、学業成 就や武芸上達が祈られてきました。このことがのちに「学問の神さま」、「芸能の神さま」として皆さまに広く知られるようになった所以です。
現在、全国各地には道真公をおまつりした神社が、およそ1万2000社あるとも言われ、その多くは当宮から御霊分けをした神社です。
(引用:北野天満宮ホームページ)
天満宮や天神社、菅原神社とは菅原道真公を祭神として祀った神社のことです。
福岡の太宰府天満宮、山口の防府天満宮、大阪の大阪天満宮などが有名です。
そもそも、一貴族であった菅原道真公が何故祭神、神様となったのかと言いますと……
菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。
菅原道真公、北野天満宮は最も有名な御霊信仰の神社の一つです。
そもそも、一貴族であった菅原道真公が何故祭神、神様となったのかと言いますと……
菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。
(引用:菅原道真Wikipedia)
政戦に敗れ、流された太宰府でその悲運の生涯を閉じた道真公。
彼の怒りが雷神となり、平安京に雷を落としました。
道真公の祟りだと恐れた時の朝廷は、道真公を神として祀り、彼の怒りを鎮めた、という訳です。
祟り神や怨霊として扱われた人物を神として畏怖し、祀ることで、その怒りを鎮めようとすることを「御霊信仰」といいます。
菅原道真公、北野天満宮は最も有名な御霊信仰の神社の一つです。
では、北野天満宮と牛とはどういう関係があるのか……。
例えば、国宝「北野天神縁起絵巻」には、父是善卿との出会いの場面をはじめ随所に牛が描かれていて、後世人々が菅公と牛の関わりをどれほど重視していたかを知ることができます。
当宮では境内いたるところに臥牛(横たわった牛)の像があり、古くから「丑の日」の参拝も盛んで、牛は神使として、天神さま(これも道真公のことです)と私たちをとり結ぶ役割を担っています。
(引用:北野天満宮リフレット)
丑年の道真公は牛に命を救われ、この牛を伴って福岡の太宰府まで行き、丑の日にその地で亡くなられたそうです。
以降、牛は北野天満宮のシンボル、道真公の神使として祀られています。
ではでは、道真公と梅とはどういう関係があるのでしょうか。
菅原道真公は、政戦により太宰府へ流される際、このような歌を詠んでいます。
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな
東風(こち、春の風流を表す季語)が吹く春となれば、主(道真公自身)がいなくても、またその匂いと共に花を咲かせておくれ……というような意味です。
また、太宰府で生涯を閉じた道真公の後を追うように、道真公の屋敷(京都、平安京)の梅が太宰府まで飛んで行き、その地で根を張ったという飛梅という伝説も残っています。
(参考:飛梅Wikipedia)
軽い言葉に感じられるかもしれませんが、菅原道真公は梅が大好きだった、という訳です。
当然、全国の天満宮、天神社では梅が植えられるようになり、牛と共に梅も天満宮のシンボルとなりました。
長くなりましたが、北野天満宮、そして梅と牛について触れました。
では、(私にとって)肝心の北野天満宮の英語表記を見ていきましょう。
まずは日本語版のリフレットです。
社務所のような所におられた方に一声掛けて一枚いただきましたが、リフレットではなく、A3サイズのハンドアウトのようなものでした。
そこでの英語表記は KITANO TENMAN-GU でした。
何故全て大文字にするのでしょうかね……個人的には少々読みづらいと思うのですが。
では、書籍の英語表記を見ていきましょう。
①:Kitano Shrine
(広瀬 直子著 『1分間英語で京都を案内する』 2014年)
②:Kitano Tenmangu, or Tenjin for short
(アダム・フルフォード英文作成・監修 『英語で京都を案内できますか?』 2011年)
③:Kitano Temman-gu
(ジョン・モリス英文翻訳 『楽しく歩ける!楽々わかる!英語対訳で旅する京都』
2014年)
④:Kitano Shrine
(ディビッド・A・セイン英文作成 『京都を英語で言ってみる』 2008年)
⑤:Kitano Tenman-gu
(槇野 修著 『対訳 寺社を歩けば京都がわかる』 2010年)
伏見稲荷大社や平安神宮の英語表記で見受けられた 神社という大きなカテゴリーの中に含まれる大社や神宮などの英語表記も shrine と表記する という英語表記の法則性が、この北野天満宮の英語表記においても Kitano Shrine という形で見受けられました。
ただ、日本人が Kitano Shrine と外国人観光客に尋ねられた時、Kitano Shrine=北野天満宮 と解釈することができるかどうかは難しいところかな…。
shrine の意味を神社と理解するのではなく、もっとワイド、柔軟に、「神社に類する建物」「a kind of shrine」と理解しなければならないので、日本人には理解されない可能性も少なからずあるかと思います。
伏見稲荷大社の場合、「大社」よりも「伏見稲荷」という語の方がよく知られており、その伏見稲荷を Fushimi Inari としてローマ字表記することで、大社を shrine と英語表記しても、日本人には伝わる可能性が高いと考えられます。
しかし、北野天満宮の場合、伏見稲荷大社の「伏見稲荷」と同程度に、北野天満宮の「北野」に知名度があるとは考えにくく、むしろ「天満宮」という語の方が知られていると考えることもできるかと思います。
その北野を Kitano とローマ字表記して、天満宮を shrine と英語表記しても、日本人には北野天満宮として伝わりにくいのではないでしょうか?
では、ウェブサイトの英語表記を見てみます。
⑥:Kitano Tenmangu Shrine
⑦:Kitano-tenmangu Shrine
⑧:Kitanotenman-gu Shrine
⑨:Kitano Tenman-gu
⑩:Kitano Tenman-gu Shrine
5つのウェブサイトを採り上げましたが、Kitano Shrine という表記は見受けられませんでした。
また、Kitano Tenman Shrine という英語表記も見受けられませんでした。(要検証)
10個の英語表記を採り上げてみて目に付いたのが、天満宮(Tenmangu)という語の認識です。
天満宮という語を一語、つまり Tenmangu と理解するのか、それとも天満と宮の二語、つまり Tenman-gu と理解するのかの違いです。
大社を tai-sha、神宮を jin-gu と二語に分けて理解するのは、かなり違和感があるかと思いますが、天満宮を tenman-gu と二語に分けるのは、何故かしっくりくる、大社と神宮の場合に比べて、違和感はあまりないかと思います。(好き嫌いは分かれるかもしれませんが……。)
天満宮を二語に分けても違和感がないということは、つまり、天満という言葉が一語で意味を持つ言葉だと認識していると言えるかもしれません。
ちなみに、天満宮の天満とは……
天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家である菅原道真(すがわら の みちざね)の御霊を神格化した神。別号 日本太政威徳天(にほんだいじょういとくてん / にほんだじょういとくてん)、火雷天神(からいてんじん)、北野天満宮天神(きたのてんまんぐうてんじん)、実道権現(じつどうごんげん)。天神信仰、天満宮の主神。学問の神で雷神。
(引用:天満大自在天神Wikipedia)
神となった菅原道真公の名前が由来と考えられますが、堅苦しく考えずとも、天満=道真公という理解で正しいかと思います。
したがって、天満という語は道真公という固有名詞と解釈できるため、tenman-gu という二語に分けたと考えられます。(二語に分ける合理的な理由はコレ以外に私は考えられませんでした…。)
The enshrined deity of Kitano Tenmangu Shrine is Sugawara Michizane, which has been a nobleman in Heian era.
He is known as a god of learning, so many students preparing for entrance examinations visit here and pray for their successes.
He loved plum blossoms and cows.
In this shrine, you can see many beautiful plum blossoms and cow statues.
The reason why he is worshipped as a god is as follows:He lost a political strife against Fujiwara Tokihira, who was a rival nobleman, and was relegated to Dazaifu in Fukuoka Prefecture wrongfully.
After his death, a powerful thunderbolt struck Heian-kyo and many noble people in Heian-kyo was killed.
People in Heian-kyo thought this thunderbolt was because of Michizane's curse and worshipped him as a god to stop his curse.
やはり、神社の英語表記はなかなか統一が見られません。
こういったブログを書いていると、寺の名前の場合はそこまで英語表記方法にそれ程大きな違いは表れていないかと思うのですが、神社の名前の場合の方が色々な英語表記が混在しています。
国際化、外国人観光客が旅行しやすい観光立国化はまだまだ険しい道だなあと思いました。
では、今回はここまで。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
-Good English, Good Japan-
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